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はじめまして、当ブログを運営する阪神ファンの たけ と申します。

簡単ではないですが、私の自己紹介をさせていただきます。

生まれは埼玉県で、18歳まで実家で過ごしました。
中学生時代はサッカー部に所属。
特に目立ったという記憶はありません。
学校が、必ず部活動に所属しなければならないという中学でしぶしぶ選んだ部活動でした。

その反動で、高校では1年生の間度の部活にも所属せずにいました。
が、ひょんなことから2年生の時に演劇部に所属することになりました。
演劇部では舞台にも立ちましたが、主役というより脇役。
そのうち舞台裏が居心地が良くなり、最終的には完全な裏方で終わりました。

大学生になり、初めての一人暮らし。
家賃1万9千円の6畳一間。
トイレ共同で風呂なし。
ここでも演劇部に所属し、裏方業を極めることに!?
音響から大道具、舞台監督、最終的には演出を経験し卒業。

その後、フリーターでお寿司屋さん、パチンコ屋さん、交通誘導、倉庫内仕訳、東京駅での弁当売り、、、様々な職種を転々として携帯電話の修理工場に派遣で入りました。

その後、その工場で正社員に登用され、1年後に福岡で新工場が立ち上がるからということで転勤。
福岡では、スタッフの募集から面接、入社手続きに育成、工場内の人員振り分け、時には自分も現場に入ることもありました、退職者の対応、スタッフの不満・愚痴を聞き、現場をひとしきり任されたうえに、上司をはじめ仕事を受けている社員さんたちとの折衝、話し合い、会議、接待、ゴルフ、慰安旅行などなど仕事は多岐にわたりましたが、20代の後半から30代半ばまであらゆる経験をすることになりました。

転勤ということで会社から用意された部屋は家賃45000円の木造アパート。
ここを1年たたずに自分から出ることに。
要求していた厚生年金・社会保険に加入しない会社にいら立った私はメールで社長に退職願を出しました。
自分がいなければ福岡工場が回らないことを十分に知っていた私は会社を相手に大勝負に出ました。
このときは私の要望をすべて受け入れ会社に残ることになりました。
退職願をメールしたタイミングで会社が用意した部屋を出て、自費でアパートを借りました。
ここから、家賃分の45000円が給与と別に支給されることになりました。

それを逆手にとって、毎年のように引っ越しを繰り返しました。
新しい部屋に移りたいという気持ちはいつもありましたが、4件目(だったと思います)の物件は賃貸ではなく購入。部屋を購入し、住宅ローンを家賃手当に回しました。
しかし、1年もたたないうちに会社にバレそうになり、慌てて新しい賃貸の部屋に引っ越し。
それでも、やはり家賃を払うことがもったいなくなり、その半年後には再び新しいマンションの一部屋を購入。会社から徒歩2分の好立地。
実はこのとき、一部屋目に購入していた部屋は賃貸に回しており、少ないながらも家賃収入をもらうことになりました。
そうなると、副業として確定申告が必要になってくるという税の知識を勉強することになりました。

派遣から足掛けちょうど10年がたった時、ガラケー中心だった携帯電話の修理業務はスマホ事業への撤退とともに完全に撤退することに。
つまり、倒産することになったのです。

倒産するイコール住宅ローンが借りられなくなる

という普通の人ではなかなか及ばない結論を出した私は倒産前に離れたエリアに1戸建てを購入。
駐車場1台込みで31000円という住宅ローンを組み晴れて倒産。

2部屋目の部屋も無事に入居者が決まり、家賃収入は5万円ぽっちではありましたが、家賃収入のおかげで事実上家賃0円で生活することを実現。ついでに電気代と水道代くらいまではカバーしてくれ、倒産後の船出にはこれ以上ない状態で迎えることができました。

さらに、倒産=会社都合の離職、ということで失業保険は8カ月。
しかも、国民健康保険は8割減。
国民年金は全額免除になりました。

それまで馬車馬のように働いてきた自分には久しぶりのゆっくりする時間が過ごせました。

さて、8カ月という夢のような時間が終わるころ、そろそろ何かしなければと思い悩むようになりました。
これだけ不動産が好きなら宅建を取ろうと思い、失業中に宅建を取得。

8カ月が終わると同時に近くの不動産屋に就職をするもやはり30代半ばを過ぎると風当たりは強く、今考えれば2週間よく耐えたなと思うつらい時間を過ごしました。
それでも、当時の自分はそんな自分自身を情けなく思い、将来に更なる不安を募らせるのでした。

嫁はぜいたくさえしなければ、アルバイトだけでもいいんじゃないの?

と気楽に声をかけてくれましたが、やはりそこは何かやらなければと様々職を探しました。

福岡で居を構え、なかなか実家に帰ることもなかったのですがこのとき実家に帰り親とも相談。
その実家でインターネットで見つけたのが軽運送でした。
ネットでは軽自動車で配送する仕事について、良いこと悪いこと様々ありました。
そんな中で、軽運送を実際にやっている人のブログを何人も拝見し、参考にさせていただきました。

もともと、不動産賃貸で確定申告は行っており、自営業に片足突っ込んでいた状態も理解を早め、埼玉の軽運送の事業所に説明会を受けに行きました。

ここでの問題は、住民票のあるところでしか開業できないとのこと。
今考えれば手続きの問題だけなのかもしれませんが・・・。

そう言われて、埼玉の事業所の方から福岡にも営業所があると教えられた私は、福岡に戻り訪ねました。

そうして2013年、福岡の地で軽運送業を開業することになるのです。


趣味は野球観戦。というか、阪神戦は特に。
福岡に住み始めて現在11年目に突入しましたが、交流戦で阪神が福岡に来る時は軽運送の仕事を断ってでも見に行きます。
2014年?
我が阪神タイガースがひょんなことからリーグ2位からクライマックスで巨人にまさかの4連勝をしたときは日本シリーズソフトバンク対阪神の福岡での試合は3戦ともドームで観戦。

阪神が福岡で日本シリーズするなんて、この先30年はないはずだ!

そう思い、仕事を蹴って、1枚1万円もするチケットを片手にいそいそと嫁と通った3日間。

甲子園で1勝1敗で迎えた、福岡での観戦は3連戦で3連敗・・・。
最後は1アウト満塁から西岡の守備妨害のゲッツ-でゲームセットという伝説の幕切れを生で観戦。

メガホンが飛び交う中球場を後にし、寒風に身を切られながら帰宅した思い出は今でもはっきりと思い出されます。

こよなく阪神を愛する傍ら、軽運送業に従事することとなった私ですが、、、
正直、軽運送は稼げない。
参考にしていたブログを拝見しながら私が出した結論です。

軽運送業を行うに当たりメリットデメリットはシュミレーション上では様々考えましたが、それでも商売というものがはじめからうまくいくと考えなかった私は、軽運送業を始めると同時に夕方7時から0時までのスーパーのレジ打ちのバイトも始めました。

バイトの給料は月にして5~8万円くらい。
はっきり言ってこれだけでも、我が家の生活は何とか回りました。
その上で軽運送業の始めの仕事は月に10万円程度。
経費を差し引いても生活は十分回りました。

この当時の考え方

そこでいろいろなことを考えながら様々な軽運送を営む個人の人のところへ面接とかこつけていろいろ勉強をさせてもらいに回りました。

3か月を過ぎるころ、倒産した会社のバイト君だった人を一人軽運送に誘いました。
自分のやっていた仕事をその人に教え、自分はほかの仕事を受けることにしました。

そこから紆余曲折ありましたが約2年で株式会社を設立。
自分の給料は20万円そこそこではありますが、自分に社会保険をかけることに成功。

それから1期目を無事、利益2万5千円(笑)という黒字で決算を終えた会社は2年目の航海に旅立っております。

いろいろなことを経験し、勉強し、楽しくここまでやってまいりましたが、今に至るまでの物語を形として残しておきたいとの思いから、また、私のように軽運送を始めたいと思っている方の参考になればとの思いからこのブログを立ち上げました。

いろいろ脱線することもあるとは思いますが、読んでいただく方が面白く、楽しく、軽運送というものを理解していただければ、少しはこのブログを始めた意味があるのではと思っております。(2016年10月27日)

2019年1月6日 追記。

早いモノで軽運送を始めて5年半がたちました。

このブログを通して一緒にお仕事をする方。
このブログをマニュアルとして活用したいと言ってくださる業者さん。
このブログを通して知り合った軽運送を始めたばかりの方。

など

いろいろな方から御相談や御縁をいただいております。

こんなつたない私の文章ではありますが
私のささやかな経験やノウハウなどが、たった1人でも役に立っていただけたら幸いと思っております。

内外から
もっと分かりやすいモノを作ってくれ
もっといろいろな人にアピールしたらどうか?

などなどお声をいただいております(汗)

今後もこのブログに思いのたけを綴りつつ
今後はいろいろな形で皆さまの元へ
軽運送とはどういったお仕事なのか?
どうやったら成功するのか?
などを
お届けできたらと考えています。

軽運送のドライバー歴で言えばまだまだひよっこの部類ではありますが
自分が経験したこと学んだことを
より分かりやすくお伝えできたらと思っております。

軽運送=宅配
朝から晩まで働いても5000円前後にしかならない

開業1年以内に廃業するドライバーはあとを絶ちません。。

そういった間違った情報をしっかりとただせるように、
軽運送業界の底上げができれば、との思いは
今も変わっておりません。

私のような小さな小さな会社の1ドライバーがどんなに声を張り上げても
まだまだ業界全体が変わるとは思いません。

しかし、誰かが本気で変えていこうと思わない限り
一生ドライバーはドライバーのまま。
ラットレースはサラリーマンから独立しても繰り返されてしまいます。

私個人はラットレースから少しづつ抜け出そうと努力をしております。
将来1人でも多くの方が
株式会社を作り、毎日毎日の自転車操業の生活から抜け出せるようにするには
どうしたら良いかを考え、うちのドライバーに落とし込んでおります。

このブログをきっかけにそういった人たちがさらに増えていくことを切に願っております。

今後ともよろしくお願いいたします。

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